2009年6月28日日曜日

星の宮虚空蔵菩薩 file_082

さくら市葛城 「星の宮」の虚空蔵菩薩


星の宮という地名にひかれ
地図上の神社記号を目指して
行ってみました。


神社ではなくお堂のようですが、
星宮神社と縁の深い虚空蔵さんです。





うなぎの額、そして同じ敷地内に星の宮公民館
星宮神社と公民館という組み合わせはとても多いパターンです。
かつての一村一社制との関わりもあるのでしょうか。




由来書
転記してみました。




「星の宮虚空蔵尊の由来」

星の宮虚空蔵尊の由来については古くより次のように言い伝えております。
今を去る八百有余年前、平安の末期嘉応年間(1168)高倉天皇の御代、
大洪水により、深山幽谷より、流れ来て、、この地東裏にある沼地に漂い
夜な夜な瑞光を放す不思議な霊木に、村人は怪しみ恐れていました。
たまたま通りかかった旅の僧は、村人からその話を聞かれ陸に引き揚げ
黙拝し、近くの川で身を潔め、お加祷をなされ、庵に籠りて、全身
全霊をかたむけ刃を下し、念仏を唱えながら刃を振りついに高さ
八十二センチの虚空蔵菩薩の座像をお刻みになり、星宮福一満
虚空蔵菩薩(俗称丑寅虚空蔵尊)と名づけ、この稀なる霊知葛城
山西前寺に安置し奉ったのであります。それ以来この地を星の宮と
呼ぶようになりました。星宮とは宇宙の方位を示す大明神で、天の水を
司る神であり、鰻は水界の王「水神」であり虚空蔵菩薩の、のりうまでお使
いである このありがたき鰻は食べてはならないとゆう禁忌がこの時より
村に残されました。
日光、月光、星光の三光に照り輝く宇宙の大光明輪を背景として
頭には五智妙来の宝冠を戴き、右手に智慧の利剣を持ち、左手に
福徳の宝珠を捧げ、全身金色、容顔殊妙熙台喜悦の相、諸人の
求願に応えて真実の知恵を授け、無量の福徳を与えんと本誓を示し
給う、知恵の光明は日月を越え福徳の広大な宇宙より勝るから
「虚空蔵」と名づけられました。
当時、星の宮は東西に小高い山並が連なり、其の間の窪地に浮かぶ段丘で
十戸程の集落があり、北裏は篠藪と雑木が叢生し、古代からの仏石や仏文
が刻まれた大小の石塚が、随所に有り、その周辺には、?や欅の老木が覆い
立つ霊感漂う荒地であった、西前寺東裏の崖下には崖に添っての
長い沼地があり、虚空蔵菩薩のお使いである鰻が多く生息していました。
北西から南西にかけての窪地一円は、清水が湧き出し周りの山沢より流れこむ山水が
東を流れる荒川と岩淵附近で打つかり逆流し酷い淀みとなり底なしの泥沼で、夏には
菰や水草が繁茂し村人の通過以外踏み入ることが出来ない天然の要害として
恰好の地であった。平安の末期より鎌倉、南北朝、室町、安土桃山と戦乱の
五百年間、幾多の豪族や、武将が砦や、出城を築き、虚空蔵菩薩を守り本尊として心の
拠り処として深く崇敬したと言われています。喜連川九代目藩主、塩谷椎延の弟
左京亮幸?太郎行縄が、長緑元年(1457)出城を築き、文明九年(1477)頃迄居住
し其の後、加藤八郎の居住となり、地名を加藤氏(加藤内)と呼ぶようになった。
江戸時代となり乱世も治り、開運出世、無病延命、諸願成就と無量のご慈悲を
授ける本尊は庶民の信仰益々高く、地元は勿論近村村から、其の御利益に
授かりたく、祈願参詣者は常に後を絶つことがなかった。
天保十年三月十三日現在の木道が再建され御本尊の両側の脇仏は向って右が不動明王で
左は勢多加童子着忌災の福寿の仏士で右手に金剛を持つ金迦羅とゆう、彫刻師
伊賀守藤原後愛の作で、天保十三年(1818)願主藤左ェ門により奉納されたものです。
尚木堂内東西の欄干の六歌仙の絵画も当時奉納されたものですが、(画人不明)破損が酷く
昭和五十年、当部落の書画人、永井玉邨翁により模写されたものです。慶応四年
神仏分離令、星宮の神霊を葛城細久保(鴨神山)に移し祀られ、明治三年福一満
虚空蔵菩薩は、喜連山慈光寺に合祀されました。
平成三年六月十八日星宮虚空蔵菩薩像は町教育委員会により町有形文化財指定となる。
現在の本堂は、再建されてより百六十有余年、茅葺屋根の雨漏れが酷く其の他各所も
腐朽し部落?町、篤志者の御協力により、屋根を銅板葺替とし外壁、濡縁も改修されました。
平成六年三月十一日着工、五月二十五日完成となりました。

星の宮部落改築委員

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